萩原 義雄 識

東と西と云えば何を思い描きますか、ある方は、大相撲での力士の呼び出し「ひがーしぃ○○○、にぃーしぃ○○まる」で東西力士の土俵入り。ある方は、「陽は東から昇り、西に沈む」と日の出日没りの方角。ある方は「風の吹き込み」の「東風(こち)」と「西風」。ある方は、浄土真宗のお寺「お東」と「お西」や奈良の寺名「東大寺」と「西大寺」など千差万別な「東西」がそこには見えてくる。なかでも「東洋」と「西洋」となればぐっと大きな世界を描き出してくる。方位には「南北」もあるなか、なぜ最初の相撲では「東西」に仕組まれ、取り組み力士が東(ひがし)方と西(にし)方に立ち会い力士を置くのか、人(ひと)名にも「東(ひがし)」さん、「西(にし)」さんがいて、此の姓の名づけが大の相撲好きだった織田信長であったという。その発端ともなっている相撲が互いの「勇力」を競いあう「竹相撲」(大竹を双方が逆に捻り引き合う)として、東方に伝蔵(豊浦冠者行實の子孫)と、西方から土俵にあがった常楽寺の右馬次郎(うめじろう)の勝敗は大竹が中より引き切れて五分に終わった。此のとき、「東」と「西」の姓を信長が授けたことが当地の古文書から明らかになっている。
その「東」字には「あづま」「はる」(慶長十五年版『倭玉篇』には「はる」に替えて「ウゴク」があって流石に、人名には用いられない。)が使われている方もいたりで、此れに引き換え、「西」さんの方は「にし」の和訓一語となっている。
「風」のことわざにも「西風は朝飯を食うて発つ」という記事が香川の持ち主から江戸期の和本一冊を購入し、その包みこみにあった四国新聞日曜版「一日一言」(十二月十七日付)に書いてあった。俳諧『三冊子』〔一七〇二(元禄一五)年〕わすれ水に、「東風、春風也〈略〉夏は南風、秋は西風、冬は北風と、漢に用る也」とも引かれている。「西風」はともすれば寒さのはじまり、やがて北風が主流となる前触れなのかもしれない。初春の機運は気運に巡り、万物を余すことなく動かしていく。地域を示す「関東」と「関西」と云ったように「東西」の語を下位部に置く語もある。
まとめに、「とぉーざい、とぉーざぁい」(あなたこなた=世間さま)の掛け声合わせも、「東西」ではじまる。「千両万両」の冨貴や慶祝に繋げていきたい。
 
《補助資料》
※『信長公記』卷三、卷十一、卷十二、卷十三にも「相撲」の事を所載する。
小学館『日本国語大辞典』第二版
ゆうーりょく【勇力】〔名〕(「りょく」は「力」の漢音)「ゆうりき(勇力)」に同じ。*日本後紀ー弘仁二年〔八一一(弘仁二)〕五月丙辰「田村麻呂、赤面黄鬚、勇力人」*太平記〔一四C後〕八・持明院殿行幸六波羅事「百戦の勇力(ユウリョク)変に応ぜしかは、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり」*仮名草子・智恵鑑〔一六六〇(万治三)〕八・五「智謀勇力(ユウリョク)をはげまし、南海迄おいつめ」*文明論之概略〔一八七五(明治八)〕〈福沢諭吉〉二・五「一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば」*周礼ー夏官・司右「国之勇力之士、能用二五兵一者属焉」【発音】ユーリョク〈標ア〉[0]
ゆうーりき【勇力】〔名〕(「りき」は「力」の呉音)強い力。いさましい力。勇猛力。また、すぐれた力。ゆうりょく。ゆりょく。*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔一六四〇(寛永一七)頃〕中「神や仏のゆふりきも尽き果てて」*浮世草子・好色破邪顕正〔一六八七(貞享四)〕中「なまなかに公平(きんぴら)が勇力(ユウリキ)、竹つなが智恵自慢」*浄瑠璃・平仮名盛衰記〔一七三九(元文四)〕三「関八刕に隠なき勇力(ユウリキ)の重忠殿」*読本・椿説弓張月〔一八〇七(文化四)~一一〕拾遺・五五回「王女はわが前妻、白縫が㚑(れう)によって、智謀勇力(ユウリキ)、をさをさ男子に恥ず」【発音】ユーリキ〈標ア〉[0]【辞書】書言・ヘボン【表記】【勇力】書言・ヘボン

△「竹相撲」奉納絵馬
  滋賀県安土町新宮神社
   平成二十七年十二月吉日
 
※観智院本『類聚名義抄』六十八雨部「西 ニシ[上・上]」〔法下七二8〕、「西音犀[平去]」せイ/サイ ニシ」〔法下七三6〕
※『色葉字類抄』に、「東西[去・上濁]同(行旅)/トウサイ」、〔六三オ5〕
※廣本『節用集』に、「東西(アナタコナタ)[東・平]トウゼイ/ヒガシ、ニシ」〔安部態藝門〕